デザイン

デザイナー

建築家アルヴァ・アールト夫妻の自邸兼アトリエ

ヘルシンキ観光のマスト・スポット

フィンランドを代表する建築家でデザイナー、アルヴァ・アールトの自邸が、観光客にも公開されて見学可能だということを、皆さんご存知でしたか?

アールトと最初の妻アイノは共にヘルシンキ工科大で学び、アールトの出身地ユバスキュラでアールトが建築事務所を主宰していた時に出会いました。結婚してトゥルクに引っ越し、そこで世界に知られたパイミオのサナトリウムなどを手がけた後、家族とヘルシンキに移住を決めたのです。

1930年代初めにヘルシンキに戻った彼らは、最初はアパート住いでしたが、設計で関わったMunkkiniemi(ムンッキニエミ)地区の土地を買い、地域の都市計画の仕事で費用の一部を払ったといいます。1935年から建設が開始され、主にアールトが設計を、そして同じく建築家のアイノが内装を担当し、絶妙のコンビネーションで家族が生活するスペースとオフィス部分が完成し、引っ越したのは翌年8月でした。2階からなる建物は、アールト、そして後妻のエリッサが1994年に亡くなるまで実に60年近くアールト家の住居として機能しました。

ヘルシンキに戻った当時、アールトは有名になり始めてはいたものの、ヘルシンキでは大きなコンペになかなか勝てず、じっと目を将来に向けていたことでしょう。そんな彼らにとって当時のヘルシンキ郊外に建てた自邸はヘルシンキで実施した初めての自分たちの「作品」となりました。

そうした背景もあって、アールトは自邸をとても愛していました。1950年代半ばまでメインのオフィスとして機能していました。オフィスの後ろにある図書室スペースには建築関連書籍がずらり。

ライブラリの画像とアールトの彫像

ここには小さな階段とドアがあって、アールトが会いたくない来客が来た時にこのドアから二階に逃げたというエピソードは有名ですが、真偽のほどは確かではないとか。実際にこのドアから二階のテラスに行くことができるので、アシスタント達は、「ボス」が海外出張の際、鬼の居ぬ間に……とばかりに、仕事をさぼってテラスに日光浴に出ていたものだと、回顧録に書かれていました。



ライブラリの隠し階段


ランプはパーヴォ・テュネルのデザイン


壁の一部はジュート材でおおわれている

スタッフも増えて手狭になり、自邸から450mほど離れたTiilimäki(ティーリマキ)にアトリエができてからもアールトが一番気に入り、くつろいでいたのはこの自邸のオフィスだったと言います。

まずは家のエントランスから、南欧の様式にのっとって、道路に面した部分にはドア一つ、白く塗られたレンガの壁と機能主義的な平屋根の外観はお世辞にもオープンな雰囲気とはいえません。春~秋にかけては蔦など生い茂り、紅葉も映える雰囲気です。

その分、庭から見ると非常にオープンで、アールト夫妻が、家と庭を同列に並べ、非常に大切にしていたことが一目で分かるつくりになっています。

二階のテラスは太陽光と風向きを考えて設計されており、特に夏は家族でテラスに出て夕暮れのひと時など一緒に過ごした様子が写真にも残っています。

オフィスは庭から見て自邸の左側の一角を成し、スタッフも家族と同じ玄関から出入りしていました。彼らは日常の長時間を自邸で過ごしていたので半分家族扱いのようなものだったとか。

インテリアについては、夫婦は中部ユバスキュラに住んでいた頃、当時の女流建築家ヴィヴィ・ロンの設計したアパートに住んでいました。自邸にもその影響が見られるそうです。
オフィスとリビング、ダイニングは一続きの空間でありながら、簡単な二枚の合板でできた引き戸がついていて居住空間とオフィスをきちんと分けることができるようになっています。リビングを支配するエレメントは黒塗りのグランドピアノ。アイノが好きで、よく弾いていたようです。椅子はアイノの1940年代のデザインしたもので、ピアノの上にアイノの写真も飾られています。同じくアイノはインテリアや植物などにも詳しく、自邸の観葉植物もアイノが配置をしています。

ペンダント・ランプはアールトのA331ビーハイブ。肘掛け椅子はタンク・シリーズのゼブラ柄で落ち着いた部屋の中でピリッとアクセントを効かせています。見逃せないのが、見たことのないシガレット・テーブル。これはなんと実現しなかった金属製の製品のプロトタイプだそうです。世界に一つだけ、に出会えるのは、デザイナーの家ならではですね。

女流建築家、そして子どもを持つ母親として、アイノは台所の使い勝手やダイニングの家具にも両側に開くような工夫など、様々な部分に手を加えています。
ダイニングの椅子はアールト夫妻が1924年に新婚旅行で訪れた北イタリアより持ち帰ったネオ・ルネッサンス様式のもの。当時は建築家達の間で、イタリアに旅行するのが流行っていました。多くの人がインスピレーションを求めていたのかもしれません。赤いランプと特徴的な曲げ木のテーブルは、1950年代のArtekの製品です。

彼らは夕食を家族で囲み、食卓で次のコンペだとか、都市計画、はたまた個人客の家の内装など、仕事の話をしたのでしょうか。友人たちを招いてワインを片手に文化談義をしたのでしょうか。子どもたちは日々の学校のことや友人とのいざこざを報告したのでしょうか。つい思いをはせてしまいます。

階段を上がるとプライベートスペース。まずホールが小さめのリビングのようになっていて、4つあるうちの一つの暖炉が位置しています。

ここは一階だと隣のオフィスで人が多くて落ち着かないこともあり、より家族だけでくつろぐ空間だったとか。夏は特に、ここから前述のテラスにでて、新聞を読んだり、子どもたちは遊んだり。実は1950年代には、世界的に有名だったアールト(と自邸)を一目見ようと、海外からも観光客、日本人も多くやってきていたようです。そして庭側にある運動場からアールトが見えるかどうか、覗き込む人も多かったとか。

ところで、アールト夫妻には開放的なところがあり、日曜の昼、服を脱ぎ捨てて「自然な姿で」日光浴する習慣がありました。近所の人たちはもちろん知っていましたが、観光客はさて、どう思った事でしょう。目を白黒させたのではないかと想像してしまいます。二階にはあとは娘のハンニ(ヨハンナのあだ名)、ハミルカル(息子)と夫婦の寝室、客間があります。

有名な建築家の自邸ということで、豪邸を想像する人もいるかもしれません。アールトは今でこそ建築界の巨匠と認識されていますが、1930年代後半になるまでまだマイレア邸もなく、パイミオのサナトリウムはトゥルクにあって遠く、首都圏の人々や業界人にとって写真でしか彼らの業績はみることのできないものでした。そこにこのすぐ近くに見に行くことができる「実物」が出現したのですから、当時はかなりの話題になり、私邸でありながら実際アールトたちのやりたい事を実現したポートフォリオ、名刺代わりとしての役割も果たしたようです。ちなみに、近所の一般の人たちは自邸が出来上がる段階でどんな変わった鶏小屋がここにできるのかと不思議がっていたそうです。当時は機能主義の家なんてあまり見ませんでしたからね。

こじんまりしてアットホームですが、当時アールト夫妻は、想像されるほど裕福でもなく、身の丈に合った、空間利用と高価すぎない建築素材といった様々なアイディアの融合で、のち世界に知れ渡るマイレア邸の「妹」のような存在としてこの自邸を完成させたといえるでしょう。アールトがこの時期個性を表してきたように、自邸にもプライベートスペース部分にあたる外壁には、タールなどで濃く色づけした角材が貼り付けられ、白いレンガだけでは冷たい印象になったところを、温かみと柔らかさが加わっています。アールトは実際、この家を「地上のパラダイス(楽園)」と呼んでいたようです。思い入れが伝わろうというものです。

現在、こちらは年間定期的に見学が可能。そしてさらに、イベントやセミナー、会議向けに貸し切りも可能。食事類はケータリングで、とのことですが、一生に残るひと時を、このアールト自邸で計画するというのもいいかもしれませんね。

開館時間など最新のものは下記サイトをご参照ください。

HPhttp://www.alvaraalto.fi/index_en.htm
住所Riihitie 20, 00330 Helsinki
行き方トラムの4,4Tで中心地から20分ほど。
入場料(ガイド付き)17ユーロ、Helsinki Cardを持っている人は15ユーロ、またミュージアム・ショップでの買い物も15%引き。 学生、シルバー世代8ユーロ(2015年4月現在)
ガイド大体平日に3回、所要時間は45分。残りは写真撮影や庭の散策に。

TEXT : セルボ貴子

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