コラム&インタビュー

コラム

シベリウス自邸、Ainola(アイノラ)を訪問

6月のとある雨の日、シベリウス自邸を訪れました。2015年はフィンランドが誇る作曲家ジャーン・シベリウス(1865~1957)の生誕150周年に当たり、日本やフィンランドをはじめ世界でさまざまなコンサートやイベントが企画されています。

自邸へと続く小道。

中南部ハメーンリンナ生まれのシベリウスは、高校卒業後、ヘルシンキで大学進学するも音楽への道をあきらめきれず、ヘルシンキ音楽院へ入り、作曲家となります。ベルリン留学後、有名な「クッレルヴォ交響曲」が成功し、フィンランドの芸術家を多く輩出した名家出身のアイノと結婚しました。以後二人はシベリウス(家族からはヤンネと呼ばれていた)が亡くなるまで数々の苦楽を共にし、六女をもうけました。(うち一人は二歳前に病死してしまいます)

18年代後半のフィンランドで良く出されたという結婚式のパイ(ピーラッカ)

このアイノラは、生涯シベリウスを支え続けた才気あふれるアイノの名を冠した自邸なのです。
ここヤルヴェンパーに自邸を建てたのは、アイノの兄で画家であるエーロ・ヤルネフェルト、作家のユハニ・アホ、画家ペッカ・ハロネンらとその家族が近所に住んでいて、とくに兄と仲の良かったアイノには兄弟の近くに住めるという安心感があったようです。彼ら芸術家仲間とその家族たちの交流は、フィンランドとフィンランド人のアイデンティティ形成にも影響を与えたと言われこのトゥースラ湖の周辺で長く語られる交流となりました。

自邸外観、南側から。シベリウスが毎日眺めた窓からの風景には、そばにあるような松の大木はまだ育っていなかった。

アイノラが完成したのはシベリウス一家がすでにヘルシンキで何年も暮らし、何度も近隣で引っ越しを繰り返し、シベリウスも作曲家として名声を得ていた頃でした。ただし留学時代に贅沢な暮らしの味を覚え、芸術仲間、または悪友たちの誘いについ乗って何日もどんちゃん騒ぎをしては「もうすぐ帰る」とアイノにメモを送るものの、なかなか家に帰りませんでした。ただそんなシベリウスも、周囲の心ある声とともに集中して作曲する時間がないことを自覚し始めます。「私の仕事には田舎の落ち着いた空気が不可欠なのだ」と友人にも語っていました。
ただ家を建てる資金がなかなかまとまらず、演奏旅行で長期留守にしてばかりの夫、報酬が入っても人に奢ってしまったりするいかにも芸術家気質なシベリウスに、すでに4人いた娘を抱えてアイノは本当に苦労をしたようです。シベリウスが演奏旅行先から「取り立て屋たちには私がいないと言ってやりなさい!」とアイノに激励する手紙も残っています。
なんとか家が引っ越せる状態になったのは1904年のこと。

その当時はログハウスの状態で、マイナス30度を超える冬にはシベリウスの仕事部屋でも気温はプラス10度ちょっとしかなく、作曲の仕事どころではなかったようです。
作曲に関しては気難しくちょっとした物音にも眉をひそめる父の為に、娘たちは父が家の中で作曲している間はひそひそ小声で話し、静かに遊んでいたとか。皆ピアノを習っていましたが、シベリウスはその練習の音さえ邪魔になると嫌がったので、地下室においてあった小さなピアノで娘たちは練習をしていたそうです。あとはシベリウスとアイノが朝の散歩に出るとき・・・これがパッパ(シベリウス)が演奏旅行などに出ていない時の、子供たちの自由に歌ったりピアノを演奏したりできる時間でした。

スタインウェイのグランドピアノ。家族や友人たち、著名な演奏家などがこのピアノを演奏している。シベリウスのために特注された品。ピアノの上には募金を募る署名運動の書類などが入った筒。楽譜はピアノの横と後ろに。

現在あるスタインウェイはなんとシベリウスのための特注製品。いつか訪れられた方はスタインウェイのロゴの下にあるMakerという字に注目ください。これは特注品の特徴です。

内部構造はニューヨークで、木枠、響板などはハンブルクで製造された、シベリウスの50歳の誕生日プレゼントとして144名の愛好家から贈られたものなのです。当時から何人ものピアニストが自邸を訪れた際シベリウスに演奏を披露したりしています。
ただ、シベリウス自身はピアノに百曲近く作っているにもかかわらず、さほどピアノを好きではなく、もっとも好きだったのはバイオリンで、上がり症のためバイオリニストのキャリアを断念したほどでしたから、弦楽器がもっとも自らの音楽を表現するのにふさわしいと考えていたそうです。数々の美しいピアノ小品は、生活に困った時「(日々の)サンドイッチのための曲作り」と呼んでいた“やっつけ仕事”だったのですね。

シベリウス家の中心的存在、ダイニングと暖炉。地元の職人グロンルースが一個ずつ緑に塗ったれんがを組み上げた暖炉。

自邸アイノラの設計は、ヘルシンキの教会(ミカエル・アグリコラ教会やカッリオ教会など)、現在の大統領の夏の別荘などを設計したラルス・ソンク(Lars Sonck)。当時若手だったソンクは大家族のための自邸を何度も練り直し、現在の形に設計しました。二階には当時夫婦の寝室、子どもたちの寝室などがあり、アイノラの中心的存在は有名な緑色の暖炉が家の魂ともいえる場所を占めています。これはシベリウスが、義兄エーロ・ヤルネフェルトやその近所の家にあった緑色の暖炉を気に入り、自邸にも特に希望したもので、職人がレンガを一つずつ緑色に塗るという手のかかったものでした。シベリウスが共感覚の持ち主だったのは有名な話ですが、彼にとって緑はF-majorつまりヘ長調を意味し、この暖炉のこともそう呼んで非常に気に入っていたそうです。(ぜひ、心の中でファソラシドレミ~と思い浮かべてみてください。)

フィンランドには、偉大な人には月桂樹や花のリースを贈る習慣があり、シベリウスも70歳、80歳などの記念日に国民から何度も大きなリースを贈られています。写真右の壁に掛けられているリースは下の方が少し不揃いに欠けているのです。これはシベリウス家に数十年勤めた料理人のヘルミ(Helmi)が料理に使うために少しずつローレルの葉(月桂樹)を拝借していたからだというお茶目なエピソードも残っています。

『シベリウスの食卓(仮)』というシベリウスのグルメ評伝。当時の彼らが食べたレシピやホテルのメニュー、アメリカの豪遊、好きだったレシピの数々が楽しめる。フィンランド語と英語版も出版されている。 “Dining with Sibelius ” (by Auditorium)

シベリウス夫婦は、お料理はせず料理人に任せていたようですが、アイノはいつもメニューを決め、シベリウスは大切な来客があるとき、お祝いの食卓でグリーン・サラダが出されるときはいつもサラダドレッシングやドリンクを自分で作ったそうです。料理をしなかったのは、お洒落でいつも真っ白な糊のきいたシャツと上着を着ていた彼の「白いカフスが汚れるから」だったそうですが、冬が長く、新鮮な野菜を出すのはおもてなしでもあったフィンランドで、マエストロが手ずから作ったドレッシングはどんな味がしたのかと想像してしまいます。
ちなみに、シベリウスがもっとも好きだった食べ物は牡蠣。英国の演奏旅行でスポンサーから食べさせてもらって病みつきになったようで、ヘルシンキの由緒あるホテル・カンプでも友人たちと「お祝いだ!シャンパンと牡蠣を!」と散財したこともあるようです。次に好きだったのは野鳥のオーブン料理。デザートも大好きで、ワインはフランスのボルドーものがお好み。マエストロはとても食いしん坊だったようです。

モダンなランプとダイニングセットはヘルシンキの別宅用に購入したWerner Westデザイン。アイノラのインテリアは、エンパイヤ調、ユーゲンド様式、機能主義と時代の移り変わりが見て取れ、それらが不思議に調和している1900年代のフィンランドのインテリア移り変わりを楽める空間。

ダイニングの家具、テーブルと椅子は、また戦争がせまっていた1942年にヘルシンキのアパートを引き払って家の中を再度アレンジし直したときに持ってこられたもの。ストックマンデパートから購入したものです。壁に掛けられたタペストリー(伝統的なフィンランドの絨毯)はハメーンリンナの友人から贈られたもの。このダイニングテーブル以前には、自邸建設にあわせてアイノが設計したダイニング・セットが使われていましたが、'42年に家具たちは娘たちのところにもらわれていったよう。アイノはピアノの名手で、語学にも堪能で裁縫なども得意でリネンの刺繍なども上手だっただけでなく、若いころに木工も習っていました。そのためアイノラの家具も必要に応じて図面を引いて設計したというアイノラの建設年が110年前であり、当時の女性の地位を考えると何とも多才な妻であったことが伺えます。

台所は実用一本やり。薪であたためる調理台とオーブンでした。林檎の芯抜きやワッフル用フライパン、丸ドーナツ用パンなどシベリウス家の食卓が伺える調理器具たち。大なべは煮込み料理用。

台所はゲストが立ち入ることはなかったため、インテリアにも手をかけるというよりは、とにかく実用第一であったことが伺えます。調理台の上にあるのは有名な林檎の芯抜きで、シベリウスのアメリカ土産。
5月のメーデーにはヘルミの自慢のドーナツがフライパンで揚げられ、クリスマスにはヘッル(愛称)のジンジャー・ブレッド(シナモン、カルダモンなどのスパイスがはいったフィンランドでも伝統的なクッキー)が焼かれたといいます。当時の苦労がしのばれるのは、なんと電話はすぐ取り付けたアイノラであるのに、水道がひかれたのはマエストロの死後、つまり1960年代。それまでは勾配の激しい庭にある井戸から毎日手押し車でオーク材の樽に水を汲み、運んでいたのだとか。その後模様替え時に井戸が台所に取り付けられたのは料理人やお手伝いさんもほっとしたことでしょう。
小さな雑音も気になるシベリウスは、水が流れる音を気にして水道管を引くことを許さなかったのです。また家の中には11もの暖炉があり、その薪割りと薪を各部屋へ運び込む労力もいやはや、大変なものであったでしょう。

娘たちは自宅で母アイノから初等教育を受けました。芸術家仲間たちがそれぞれ音楽、文学、芸術、などと得意な分野を互いの子どもたちを集めて順番に教えたりしていたようです。そして長女から順に大きくなるにつれヘルシンキの学校に進学し、寄宿舎に住んで週末自宅に戻るという生活をしていたため、娘たちが大きくなると夫婦にも家の中で時間とスペースができました。こうして1940年代の模様替えで、すでに高齢になって階段の上り下りがつらかったシベリウスの仕事部屋兼寝室が一階の奥の部屋となりました。この寝室でシベリウスは永眠しています。
仕事部屋ではいくつもの交響曲を含む大作が生まれています。楽器を使わずすべて自らの頭の中で作曲していたシベリウスにとって静寂は非常に大切なものだったため、前述のようにまわりがとても気を遣っていたことはよく知られています。

シベリウスの寝室および仕事部屋 ランプをつけてなんども部屋の中を歩き回り産みの苦しみを経験したであろう場所。こちらの本棚には主に辞典、辞書類が多かったよう。デスクはアイノの父の遺品。

アイノは夜中に仕事をするシベリウスの部屋を歩き回る靴の音、ピアノを弾く音をききながら作曲が無事進むように願っていました。何か月も取り組んだ曲がついに完成した時、シベリウスが急にデスクにつき、ペンを紙に走らせる音がなんと心地よく響いたか、一ページの楽譜の小節を一気にペンで引いていく(シベリウスは各楽器パートも同時に作曲していたため完成時にパートごとでなく総譜を書き上げたといいます)音を耳にしながら、安心して眠りについたと後に語っています。作曲が完成すると家の中のピリピリした雰囲気が一気に皆の幸福感に満ちて落ち着いた雰囲気になったのだとか。

書斎。ぎっしりと貴重な書籍が詰められている本棚。奥には有名なアクセリ・ガッレン=カッレラがシベリウスに贈った作品“Satu(おとぎ話)”が掛けられている。ちなみにこの暖炉は黄色でD-major(二長調)。左下にはシベリウスが愛した葉巻のためのテーブルと肘掛椅子がちらりと。

後世、子どもたちが独立してからは一階の書斎が夫婦の時間を多く過ごす部屋となりました。
シベリウスもアイノも教育を受け数か国語を使いこなした当時の保守階級で育ったため、本棚にはぎっしりと蔵書が並んでいます。シベリウスはちなみに当時の知識人の例にもれずスウェーデン語系フィンランド人、アイノは父が有力者で軍人、スウェーデン語系でしたがフィンランド語を母国の為に推進した家で、母はドイツ系のロシア貴族の家系でした。娘たちはフィンランド語が母語でしたが、スウェーデン語も同じぐらい使いこなしたといいます。ですから生家からもってきたシベリウスの『ロビンソン・クルーソー』はスウェーデン語、ダンテの『神曲』はドイツ語とフィンランド語で自らの作品にテーマを取り入れた国民的叙事詩『カレワラ』はフィンランド語で、そしてなんと翻訳家森本覚丹氏からのサイン入り邦訳版『カレワラ』も所蔵されています。ホメロスの『オデュッセイア』や古典文学ラテン語で読んでいました。そして数々の作家の友人たちからの膨大な寄贈書。アイノもフランス語、ドイツ語、英語で読書していました。当時は英語はまだ第一外国語ではなかったので、アイノは夫の秘書を雇う前は手紙のやり取りなども管理し、そのため英語文学で英語を学んでいたようです。母から譲られた芸術家仲間ユハニ・アホ全集など貴重なものもふくめアイノラの蔵書数は3500冊にものぼります。意外なコレクションは膨大な数の雑誌『ナショナル・ジオグラフィック』。友人で、ライバル意識もしていた有名な画家アクセリ・ガッレン=カッレラがアフリカに2年も家族で住んだことを、実は羨ましく思ったりもしていたのかもしれません。

サウナとサウナ内部の浴槽。上に吊り上げるバケツにお湯を入れ、蛇口をひねるとあら不思議、シャワーが楽しめる当時の新製品。
サウナ小屋もすべてアイノが製図したもの。

フィンランド人にとって欠くことのできないサウナは、母屋が出来上がったあと建てられました。これもなんとすべてアイノの設計によるものです。当時めずらしかった湯船やバケツにお湯を張って蛇口を開くシャワーなど、一家がサウナを楽しんでいたことが伺えます。

夫婦が二人とも愛した場所。アイノは毎日いそがしく庭仕事をしていた。林檎の木も数多い。

サウナをはじめ、アイノラの庭全体にさまざまな植物が植えられています。
現在は花々が美しく咲いていますが、ガーデニングを愛し、必要に迫られて庭の多くのスペースを野菜や果物の畑にしていたアイノは、春から秋まで毎日いそがしく庭で働く時間をこの上なく愛していたようです。
春は畑を耕し、種を巻き、夏は雑草を抜き、使える野菜は毎日の食事に、ジャガイモを収穫し、当時まだ非常に珍しかったトマトは自慢のハウスで数種類栽培し、近所で一番おいしいトマトはどこか笑いながら皆で味わい、ベリーが熟すとジュースやジャムの加工に忙しく、また森からビルベリーやキノコを採取して乾燥させたり瓶詰にしたり。10月ごろから実林檎は数種類の木があり、クリスマスに美味しい林檎を生食できるようすべてシルクペーパーに一個ずつ大切に包んで貯蔵していました。アイノの几帳面さが伺えますね。

後世は国内外での名声と、著作権法が整備されてようやく収入も安定してきたシベリウス。ついに8番目の交響曲は世に出ませんでしたが、夫婦と子どもたち、孫たちに囲まれて幸せな日々を過ごしたようです。
1957年に91歳で世を去ったシベリウスは、生前から最も愛した自宅の庭に葬られることを希望していました。以前家族で滞在したイタリアの風光明媚な地ラパッロにちなんで名付けた庭のあたりに、共同墓地ではなく庭に墓を建てることを許可され、ブロンズ製の墓標がひっそりと存在します。

多くの人がこれまでも詣でた二人の墓標。若いころは苦労も多かったけれど、家族に囲まれ、大好きな場所が安住の地となった幸せな夫婦。ブロンズは雨にぬれ美しい色をしていました。

私が訪れたのは雨がしとしと降る緑美しい夏の日でした。
どうしても雨が降っているときに訪れたかったのは、この墓標が「雨のときにシベリウスが愛したトゥースラの湖面と同じ色合いになる」ことを読んだからでした。

同じ場所に1969年亡くなったアイノも眠っています。アイノの希望で、シベリウスよりもずっと小さめの、たおやかで優しい筆記体の書体で名前が記されています。

どうぞ二人とも安らかに。
アイノラよ、また会う日まで。

Ainola(アイノラ)

HPhttp://www.ainola.fi/eng_index.php(英語版)
住所Ainolankatu, FIN-04400 Järvenpää, Finland
アクセス長距離バス:Helsinki bus stationから (Helsinki-Hyrylä-Järvenpää行き)約50分.
「Ainola」バス停で下車、徒歩200m. 
電車:中央駅から北のJärvenpää行きに乗り3㎞離れたAinola駅(旧Kyrölä駅)下車、徒歩1.5㎞。一時間に約一本。
開館日火曜~日曜(月曜休館)毎年5月初め~9月末まで
入場料大人:8ユーロ、子ども7~16歳:2ユーロ(2015年夏現在)
電話+358 9 287 322
メールinfo@ainola.fi

TEXT : セルボ貴子

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